株式市場のヒステリシス

ヒステリシスとは、日本語では履歴効果と訳されている。元々は物理学の用語である。過去の実績の集積が、現在の状態に対して粘着性をもって影響する状態を意味する。この言葉を1940年代からサミュエルソンらが経済学の用語として使い始めたという説もある。しかし、広まったのは、オリビエ・ブランシャールとローレンス・サマーズが1980年代のヨーロッパ諸国の高失業率の定着の原因を説明するために、ヒステリシスという言葉を使い始めてからである。一旦、高失業が社会に定着してしまうと、容易には失業率が下がらなくなることがありうる。例えば、労働者が、一旦、解雇されてしまって、長い間、失業状態にあった場合、それまで蓄積してきた技能を失い、再び元の職業に戻ろうとしても、元の職業に戻って働くことができなくなる可能性がある。こうした労働力全体の劣化現象が起こると、完全雇用失業率まで失業率は下がらず、長期にわたって高い失業率が続いてしまうかもしれない。1980年代のヨーロッパ諸国では、インフレ率の水準にかかわりなく、高失業率が定着する傾向が見られた。ブランシャールとサマーズは、この現象を「ヒステリシス」と名づけた。

一方、1980年代初頭のアメリカは、オイルショックに端を発するスタグフレーションと、インフレ退治を最優先に掲げた当時のボルカーFRB議長の金融政策により、金利は大幅に上昇し、失業率も高まった。しかし、高金利政策によるインフレ抑制が成功すると、金利は低下に向かい、失業率も顕著に低下したのであった。

ところが、現在のアメリカは、失業率の低下スピードが鈍く、長期失業者や、職探しをあきらめた人たちの数も増加している。そのため、ヒステリシスという現象が、現在のアメリカでも発生しているのではないかと指摘する経済学者が現れ始めている。今年5月、FRBのバーナンキ議長は、現在は、ヒステリシスは発生していないと述べている。しかし、将来は、長期の構造的失業の問題が発生する恐れがある、という内容の発言をしたと何度か伝えられている。

ヒステリシスという現象は、経済を観察すると、失業率以外の至る所に、似た現象が発生している。私が日本における経済現象で、最もヒステリスにぴったりの状況が発生していると考えるのが、日本の株式市場である。


株券の投資部門別売買状況と日経平均の変化

上記の表は、1990年以降の株の投資部門別売買状況を示した表である。東証の発表する数値は13部門に分かれているが、その内、主要な部門である8部門を取り出して示した。1990年-2012年の売買を合計すると、買い方は、外国人69.3兆円、信託銀行9.6兆円、投信0.2兆円、売り方は、個人34.3兆円、自己16兆円、保険12.8兆円、事業法人8兆円、銀行4.4兆円となっている。この中で、個人の売り越しが34.3兆円と金額が大きいのは、個人投資家は、取引所外で、新規公開、増資、売り出しという形で多額の株を買っているので、取引所での売買はどうしても多額の売り越しになってしまう。新規公開等の分を除けば、売り越し金額は大幅に減少するはずである。自己、すなわち証券会社の自己勘定部門が16兆円の売り越しになっているのは、1990年代には、自己が転換社債、ワラントを買い付け、それを株に転換し、取引所で売却していたからである。2000年代になると、内外の機関投資家の大口の売りを、自己が取引所外取引で一旦買い取り、その分を取引所で売却していたからである。そうした売買を除けば、自己の売り越し金額は、長期ではゼロ近辺になるはずだ。このような実状を考慮すると、前回、株式分布状況調査のグラフ(*1)で示した結果とほぼ同じ結果となる。すなわち、バブル崩壊後の日本株の買いの主体は、外国人、信託銀行であり、売りの主体は、保険、事業法人、銀行である。

ここで注目してもらいたいのは、外国人投資家の売買である。誤差を除けば、外国人投資家の買い越し金額=日本人投資家の売り越し金額、となるはずである。1990年以降の外国人投資家の買い越し金額=日本人投資家の売り越し金額は、69.3兆円と、巨大な金額になっている。次に、上記の表の一番右側に、日経平均株価の前年比の変化が掲載されている。ここで、日経平均株価が上昇した年には、必ず外国人投資家が買い越していることがわかる。日経平均株価が下落した年には、外国人投資家は買い越し、売り越しの両方がある。つまり、株価が上昇した年は、必ず、外国人投資家の買い越し=日本人投資家の売り越しとなるのだ。株価が上昇する場合、年間で見れば、必ず外国人投資家の買い越しによってその上昇は主導されている。そして、株価が上昇する場合、年間で見れば、必ず日本人投資家は売り越しになって、株価上昇の抑制要因となっているのであった。1989年以前には、日本人投資家の買い越し=外国人投資家の売り越しで株価が上昇することはあった。しかし、株価が1989年末に史上最高値を付け、バブル崩壊が始まる1990年以降は、日本人投資家は、株価が上昇する局面では必ず売り越すようになった。日経平均株価は、1989年末の38,915円から、1992年末の16,924円へと、わずか3年間で21,991円もの値幅の大暴落が起こり、日本人投資家は皆、株で大損をしたのである。その後は、外国人投資家の買い越しで株価が上昇しても、日本人投資家が売り越しになるので、しばらくして株価は下落に転じてしまう。そうしたサイクルが繰り返されると、ますます日本人投資家は株価の上昇局面では売り越すこととなった。現在では、日本人投資家の間では、株価の右肩上がりの上昇は無い、という予想が強固に根付いてしまっているので、実際に株価が少し上昇すると、必ず売り越すという行動に出てくる。その結果、株価は本当に上がらなくなってしまったのである。2012年3月末時点において、外国人投資家の日本株保有比率は、26.3%で、残りの73.7%は、依然として日本人投資家が保有している。73.7%を保有する日本人投資家が、株価が上昇に転じると、必ず売り越しになるのである。これは、日本の株価の長期上昇が困難になるという意味において、明らかにヒステリシスが発生している。

(*2)で、日銀が量的緩和を強化した場合、株価が上昇することを示したが、その時も、外国人投資家の買い越し=日本人投資家の売り越しの中で株価が上昇することを記した。外国人投資家が日本株を買い越す中で株価が上昇すると、円高要因になり、日本の対外純資産も減少してしまう。従って、より望ましい姿は、日本人投資家の買い越しにより株価が上昇することである。しかし、すぐに日本人投資家が、株価の上昇局面で買い越して、日本の株価が上昇するように誘導する政策は、存在しない。一旦、ヒステリシスが発生してしまうと、そこから新たな政策を発動しても、抜け出すことは、困難になる。従って、本来なら、ヒステリシスの発生を前もって予想し、ヒステリシスが発生しないように早めに政策対応を実施することが必要なのである。残念ながら日本では、早めの政策対応どころか、現在ですら、日本の株式市場にヒステリシスが発生している事実が認識されていない。

ヒステリシスから脱却するためには、日銀が量的緩和を強化して、外国人投資家の買いが主導し、株価が上昇することが、まず必要である。その後、株価が下がる局面はもう来ないと、多くの日本人投資家が確信を持つようになってから、初めて日本人投資家は株価上昇局面でも買い越すようになるはずだ。そのためには、日銀による量的緩和の強化によって株価が上昇しても、量的緩和を緩めることなく継続強化することが必要である。大規模かつ長期の量的緩和が実施されて、初めて、日本人投資家は株価上昇の局面でも株を買い越すようになり、ヒステリシスから解放されることになる。大規模かつ長期の量的緩和が実施されると、普通なら、日本の株価上昇がバブル化することが問題になる。ヒステリシスの状態では、日本の株価上昇が容易にバブル化しないことが問題になるのである。日本人投資家が買い越しとなり、継続的な株価上昇局面が始まった時には、金融を引き締めて、株価を引き下げる政策を実施してはならない。ヒステリシスの再現をもたらしてしまうからである。代わりに、株に対するキャピタルゲイン課税の強化のような形で、株価の上昇速度を抑制する政策を採る必要がある。

日銀は、インフレ率が低くてもバブルは発生すると、過去において何度もバブルの再燃に対する警戒感を示してきた。バブルの発生を恐れるのではなく、現状がバブルとは正反対の現象である、日本の株価が上がらないというヒステリシスの現象が発生している事実を、まず認識すべきである。その上で、ヒステリシスから抜け出すためには、大規模かつ長期の量的緩和が必要であることを、日銀が理解することが必要なのである。

テーマ : 経済
ジャンル : 政治・経済

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No title

なるほど、口でどんなに強気なことをいっても、高くなると売るのはしみついていますね。

後、気になるのは人口問題です。
2040年の人口予想が3月後半に発表され、4月初頭の内需株暴落は、設備投資予想の低調だけでなくこれも噛んでいたように思います。

人口が減れば、内需企業は、それに合わせて、拡大路線をやめ、縮小、利益確保、高配当、のモデルに合わせざるを得ません。
しかし、今内需企業を見る限り、拡大、低配当、成長路線のものが多く、人口が減って来た際の減益、競争激化による更なる減益や倒産が連想されます。
人口が増えない限り、長期で内需株は買えない気がします。

外需については世界経済とリンクしてるのであまり日本の問題ではないですよね。(為替は影響受けますが)

No title

いつも凄く勉強になります。
個人的には、2013年5月の暴落までは、アベノミクス以来、一時的にでありますが、
個人も上昇局面で買ってたように思います。
しかし、あの時の急落でまた逆張り的になったように思います。
2014年の1月、5月、8月、10月、2015年1月、いづれも逆張り買いで、上昇局面で売る。いいかげんはや売りでのロスに気づきだして、今の2万以上の株価がもう少しキープされれば、個人もまた順張りで買ってくるのかなーと思ったりします。

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