日本の貿易構造の転換 マーシャル・ラーナー条件が成立へ

日本の貿易構造が転換しつつある。2011年3月以降、日本の貿易・サービス収支の赤字が続いていた。アベノミクス相場による円安でその構造が変化するかと思われたが、その期待は実現しなかった。しかし、最近になって大きな変化、すなわち貿易・サービス収支の改善が起こり始めた。今回は、そうした変化をふまえながら、1年後に発生する可能性のあるシナリオを提示したいと思う。その後、円安が貿易・サービス収支を改善させる条件であるマーシャル・ラーナー条件を使って現在の局面変化を説明し、それでも残された貿易・サービス収支の改善に必要な政策を述べる。

まずは、日本の輸出、輸入、貿易収支の過去10年間の推移を表すグラフを下記に示す。


輸出入金額

輸出入も貿易収支も大きな変化が続いている。その中で最も注目すべき変化は、直近における輸出の増加であり、その結果、貿易収支の赤字がかなりの速度で減少しつつあることである。

次に、輸出入の変化を貿易の数量で示す。日銀が算出している輸出、輸入数量指数を表すグラフを下記に示す。


輸出入数量

目立つのは、直近における輸出数量の増加である。リーマンショック後、輸出数量は、長らく落ち込んでいた。アベノミクス相場による円安の結果、輸出数量が増加することが期待されていた。しかし、簡単に増加しなかった。それが、2014年6月に底を打ち、ようやく輸出数量の拡大が発生し始めた。これが、輸出面における最大の変化である。

輸出数量と比較して、輸入数量の増加は緩やかである。現在、輸入サイドで発生し始めている大きな変化は、数量ではなく、価格の変化である。一言でいえば、燃料(ここでは石炭を除く)価格の急激な低下が始まろうとしている。過去10年間の燃料輸入金額の推移を表すグラフを下記に示す。
エネルギー輸入金額

リーマンショック後に急落した時期もあったが、その後はジリジリと増加し続けていた。最近になって輸入金額減少の傾向が見られる。加えて、輸入燃料の価格は、今後、いっそう低下するのである。日本の輸入原油、LNG価格と、北海ブレント原油の円建て価格を表すグラフを下記に示す。

エネルギー単価

直近の北海ブレントの月中平均の高値は、2013年12月の1バーレル当たり11,455円である。直近では輸入原油価格も急落し始めている。北海ブレントという先物市場で決定される原油価格に少し遅れる形で、日本の輸入原油価格も追随している。一方、LNG価格は、契約では原油価格を約3ヶ月後追いすることになっているものが多い。しかし、過去の推移を見ると、原油価格から3ヶ月以上遅れており、だいたい数ヶ月ほど遅れている。LNG価格の2014年12月は過去最高値である。しかし、この高値は長続きしない。今後、急速に低下していくことは間違いない。

いくつかの仮定を置いて、2015年12月の燃料輸入金額がどの程度減少するかを試算してみることにする。円建て北海ブレント価格の2013年12月平均の高値と2015年1月末とを比較すると、46%の下落になる。ここでは、2015年12月の3種類の燃料価格が高値から46%の下落となり、輸入数量に変化がないことを仮定する。LNGの高値は2014年12月と仮定する。すると、2015年12月の平均燃料価格は、2014年12月比で36%低下すると算出できる。つまり、燃料輸入金額は、2014年12月に2.2兆円であったのが、2015年12月に1.4兆円まで、0.8兆円減少すると算出できる。

燃料以外の貿易収支はどうなるのであろうか。これは、前提や計算方法により差が生じてしまう。ここでは、輸出数量が直近の底であった2014年6月を基準にする。ここから、いくつかの仮定を置きながら細かな四則計算を繰り返すのであるが、途中経過が長くなるために省略する。結論として、主として輸出金額の増加により、燃料以外の貿易収支は、0.9兆円前後の改善と算出できる。

2014年12月の季節調整済の貿易収支の赤字は0.7兆円である。その後1年間に、燃料価格の値下がりにより燃料収支が0.8兆円改善し、円安を通じて燃料以外の貿易収支が0.9兆円改善する。改善幅は合計で1.7兆円である。この場合、2015年12月の貿易収支はちょうど1兆円の黒字になる。ちょうど1兆円になったのは、仮定を変えて何種類かの数字を計算すると、大半が1兆円を少し上回ったので、少なめの数字である1兆円を選択したという事情もある。

貿易収支以外の経常収支の他の項目はどうなるのであろうか。まず、サービス収支のグラフを下記に示す。


サービス収支

旅行収支の改善がめざましく、全体の収支は改善傾向にある。

次に、第一次所得収支、第二次所得収支とその合計を表すグラフを下記に示す。


所得収支

第一次所得収支も改善傾向にある。第二次所得収支は低位で横ばいである。全体としては、2つの所得収支の合計も改善傾向である。

もう一度、貿易収支に戻る。2015年12月末の想定は1兆円の黒字であった。これをさらに保守的に見積もって、0-1兆円と想定しなおす。なお、貿易収支には2種類あり、上記で使用したのは通関ベースの数字であった。これとは別に、国際収支ベースの数字がある。若干の定義の違いから、通関ベースの数字の方が少し大きい。しかし、その差の平均は月間100億円強であり、大きな違いはない。これからは、貿易収支として国際収支ベースの数字を使う。通関ベースの貿易収支と、国際収支ベースでの貿易収支が2015年12月末時点までどのように動くかを想定するグラフを下記に示す。


貿易収支予想

次に、経常収支を計算する。サービス、第一次、第二次所得収支の合計は、保守的に見積もって1.5兆円であった。これは、仮定の多い貿易収支より実現可能性が高いので、経常収支は貿易収支に1.5兆円を加えることにする。2015年12月の経常収支を1.5-2.5兆円の黒字と想定し、そのグラフを下記に示す。

経常収支予想

このシナリオでは、円安による輸出増加、燃料価格の低下により、2015年末の貿易収支は0-1兆円程度の黒字になる。経常収支は、1.5-2.5兆円程度の黒字になる。年率に直すと、貿易収支は0-12兆円、経常収支は18-30兆円の黒字になる。これが本当に実現する場合、2015年末の貿易収支、経常収支の黒字は、リーマンショック前のピーク近辺に近づくことになる。

このシナリオが現実になる条件は、2014年1月末の世界経済が、あと11ヶ月間同じ環境を維持し、日本の貿易収支だけが改善し続けることである。つまり、2015年1月末の1ドル=117円45銭、北海ブレント価格が1バーレル=
52.99ドルで固定化され、日本の輸入燃料価格が低下し続けることである。それに加えて、世界経済に大きな変動がなく、日本の輸出が伸び、燃料以外の貿易収支も改善することである。年内に為替レート、原油価格が大きく変化せず、かつ世界経済に大きな変動が発生しなければ、上記の貿易、経常収支のシナリオは現実のものとなる可能性が高い。しかし、こうした前提条件が満たされる可能性は高くないので、これは単なる1つのシナリオでしかなく、予想とすることはできない。

上記のシナリオが実現するためには、他にもう一つだけ非常に重要な条件が存在する。(*1)で説明したとおり、だいたいにおいて、経常収支の黒字=金融収支の黒字が成立する。経常収支の黒字が年率で15-25兆円になるためには、金融収支の黒字拡大も必要である。金融収支の黒字が拡大しない場合、暴力的な円高が進行し、貿易収支を再び赤字方向に引き戻してしまうのである。

貿易収支の改善は、所得の増加をもたらし、何もしなくても所得の一部が海外へと流出し、金融収支の黒字拡大が発生することは起こりうる。また、昨年の黒田バズーカ砲第2弾とGPIFによる外国証券投資拡大の効果が顕在化し、金融収支の黒字が増える可能性も存在する。しかし、2015年1月末時点において、金融収支の安定的な黒字は、直接投資を通じる年率10兆円強の黒字しか見えていない。直接投資以外で年率5-15兆円のネットでの安定的な資金流出が実現することが、経常収支の黒字拡大にとって不可欠な条件であるのだ。現状のままでも実現する可能性はあるが、確率は高くない。これを100%の確率で実現させることが望ましい。そのために必要な手段が、日銀による金融緩和の大幅な強化なのである。リスク回避志向に固まった国内投資家の資金を無理矢理でも国債から引き剥がし、その一部を海外へと流出させる必要がある。

スイスの為替上限レート撤廃と-0.75%というマイナス金利の導入により、世界の先進国の国債金利がマイナスになるものが増えてきた。外国債券投資の困難さは以前より高くなった。現在のような環境下では、金融緩和の強化により、日本の国債金利をマイナスにさせることが、従来以上に必要になる。そうしないと、国内から海外への資金流出が拡大するどころか、海外から国内への資金流入が拡大し、ネットでの資金流出金額を拡大させることができなくなるからだ。日銀は一日も早く国債購入金額の拡大を決めなければならない。ECBの量的緩和も、裏の最大の目的は、資金の海外流出によるユーロ安誘導である。日本の場合、必要なことは、円安というよりも、ネットでの対外資金流出の拡大=金融収支の黒字拡大である。資金がネットで海外に流出しなければ、超円高が発生し、経常収支の黒字拡大は不可能になる。

しかし、経常収支の黒字が本格的に拡大し始めれば、今度こそ「一国繁栄型の近隣窮乏化政策」という非難が世界中から間違いなく高まる。昔のような強い日本の輸出産業が出現してしまうことは、外国にとっては脅威になる。そうした環境になった場合、日銀の追加金融緩和は、国際政治的観点から不可能になる。追加金融緩和のために残されている時間は、長くはないのだ。

リーマンショック前のように、国内から海外へと巨額の資金が流出する状態へと戻すことが、日本経済の成長のために最低限必要な条件なのである。にもかかわらず、資金流出拡大は金利の上昇を通じて日本経済を破滅させるという100%間違った考え方が広まりすぎている。また、「円高原油安=交易条件の急激な改善」を望む声も多い。日本の輸出産業が大崩壊を起こした2008-2009年の再来が望ましいと考える人が多いのである。日本はリーマンショックの直接の悪影響が先進国の中で小さい方であった。それにもかかわらず、2009年の実質GDP成長率は、震源地のアメリカを下回り、先進国の中でも一番低いグループに属していた。超円高を通じる急激な交易条件の改善は、とてつもなく恐ろしい結果をもたらすのである。しかし、こうした間違った考え方が広まることには、理由が存在する。2012年11月の円安発生以降、日本経済において、マーシャル・ラーナー条件が成立していなかったからだ。

マーシャル・ラーナー条件
輸出の価格弾力性+輸入の価格弾力性>1

この式が成立しない場合、円安により、貿易・サービス収支を改善させることができなくなる。昨年前半までの日本は、過去の超円高により経済の供給サイドが崩壊し、このマーシャル・ラーナー条件を成立させることができなかった。そのため、円安進行にもかかわらず、貿易・サービス収支は改善しなかった。

マーシャル・ラーナー条件が成立していない間は、我慢の時期であったのだ。円安になっても輸出は増えにくい上、輸入はより増えてしまう。円安で輸入物価が上昇しても、輸出はそれほど増えず、貿易・サービス収支の赤字は縮小しない。その場合、所得も増えない。そのため、「円安デメリット論」が昨年秋頃に急激に吹き出した。日本経済がマーシャル・ラーナー条件を永久に成立させることができないならば、円安デメリットも永久に続く。この場合でも、(*2)で説明したように、日本の資産は増加していた。しかし、(*3)の後半で説明したように、日本の所得は減少していた。所得の減少する円安政策に対して、反対の声が高まる理由は理解できる。

しかし、輸出と輸入の弾力性は、短期と長期では異なる。当初は、数ヶ月以内に弾力性が拡大し、マーシャル・ラーナー条件が成立するようになると思われた。しかし、数ヶ月後にマーシャル・ラーナー条件が成立することはなかった。その後、「円安デメリット論」が吹き出したが、それより前に、日本経済はマーシャル・ラーナー条件が成立するように転換していた。日本経済の供給サイドの再活性化とともに、昨年の春頃から輸出の弾力性が高まったからである。その後に、原油安という神風が吹き、輸入の弾力性も高まった。マーシャル・ラーナー条件が成立すると、円安進行の結果、貿易・サービス収支が改善するのである。なお、経済理論的には、マーシャル・ラーナー条件は、初級者用の理論である。上級編ではより複雑な条件を要求するものもある。現在の日本では、そうした複雑な条件も成立しているはずである。

今後の日本経済は、マーシャル・ラーナー条件の成立により、円安とともに貿易・サービス収支が改善へと向かう。しかし、問題は、円安がいつまで続くかがわからないことである。貿易・サービス収支が改善している間は、ネットでの対外資金流出の拡大が発生しているはずである。しかし、何らかの事情が発生し、ネットでの対外資金の流出が拡大から縮小へと反転したと仮定する。この場合、円高が発生し、同時に貿易・サービス収支が再び悪化に転じてしまう。マーシャル・ラーナー条件が成立していたとしても、資金の流れが変化すれば、為替レートも変化し、円安ではなく、円高が再び進行してしまう。円高が進行し始めると、マーシャル・ラーナー条件を適用することができなくなる。

ここに、マーシャル・ラーナー条件の限界がある。マーシャル・ラーナー条件は、貿易財・貿易可能サービスだけに光を当てた部分均衡分析である。私の国際収支アプローチは、財・サービス市場と資産市場とを総合して扱う国際収支の一般均衡分析である。日本で見られる貿易分析は、輸出と輸入だけに焦点を当てる部分均衡分析が主流である。部分均衡分析は、一般均衡分析よりわかりやすいという長所がある。昨年春頃から、マーシャル・ラーナー条件が成立しているため、部分均衡分析を使ってみた。しかし、部分均衡分析だけで日本の貿易を語るには限界がある。やはり、一般均衡分析を使わなければならない。前の方で詳しく説明したとおり、「ネットでの対外資金流出の拡大=金融収支の黒字拡大」が貿易・サービス収支の改善に不可欠な条件なのである。

日本経済では、マーシャル・ラーナー条件が成立するという重大な局面変化が起こった。しかし、これは円安を通じて日本の貿易・サービス収支の改善をもたらすための条件でしかない。円高になれば意味がなくなってしまう。従って、円高を再び発生させてはならない。そのためには、貿易・サービス収支の改善分以上の資金を、ネットで国内から海外へと確実に流出させなければならない。その具体的な手段として、日銀による国債購入金額を、年間80兆円から大幅に拡大させることが、必要不可欠なのである。


リンク先記事
国際収支の仕組みと貿易収支を黒字に戻す方法(*1)
資産価格の大幅増加という円安メリット論(*2)
交易条件悪化論と中小企業損失論をこえた円安メリット論(*3)




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テーマ : 経済
ジャンル : 政治・経済

スイス国立銀行の債務超過転落

1月15日にスイス国立銀行が、1ユーロ=1.2スイスフランの為替レートの上限撤廃を突然発表した。この直後から発生した急激なスイスフラン上昇の影響は大きく、スイスフランは値上がりしないと決めつけ、スイスフラン建ての債務を保有したり、スイスフランのショートポジションを保有していた投資家が、大きな損失を出したり、破綻したというニュースがいくつも流れた。一方、私の一番の関心事は、スイスフランの為替レートが急上昇することにより、スイスの中央銀行の純資産がどうなるかであった。直感的に「債務超過転落」という単語が浮かんだからだ。1企業、1個人の債務超過転落よりも、中央銀行の債務超過転落に関心があったからだ。今回は、スイスが1ユーロ=1.2スイスフランという上限を撤廃した理由、スイスフラン上昇が引き起こす影響、中央銀行の債務超過転落が引き起こす結果について述べることにする。

「中央銀行のバランスシート拡大 リスクからリターンへの発想の転換」(*1)という記事を以前書いた。そこでは、巨額のバランスシートを持つ香港、シンガポール、台湾、スイスを取り上げた。そしてそれらの国の経済が発展した理由は、日本とは異なり、中央銀行が巨額のバランスシートと外貨建て資産を保有していることが一因と結論づけた。日銀が量的緩和に踏み出して以降、中央銀行がバランスシートを膨らませることにはリスクを伴うと言われ続けてきた。黒田総裁になって、量的緩和の規模が拡大すると、そうした意見はますます強まることになった。バランスシート拡大の先には、インフレが必ず発生するという根強い考え方が日本には存在する。

私は、中央銀行のバランスシート拡大にリスクはあるが、それ以上に経済成長というリターンが存在すると考えている。経済成長を実現させるためには、誰かがリスクをとる必要がある。日本経済が低成長から抜け出すためには、最初に中央銀行がリスクをとる必要がある。中央銀行がリスクをとってバランスシートを拡大させれば、モノや資産の価格上昇を通じて、名目ベースの企業収益率が高まる。これは起業を志す新しい企業家が増えると同時に、起業が成功する確率が高まることをも意味する。この結果、日本経済の成長率も高まる。従って、中央銀行がバランスシート拡大というリスクをとることにより、日本はリターンを増やすべき、すなわち経済成長率の上昇を実現させるべきだと考えている。

中央銀行のバランスシート拡大をリスクと見る考え方は、日本だけではない。スイスでも同じような考え方が存在していた。スイスの場合、バランスシートの拡大リスクと外貨建て資産の保有リスクという2つのリスクをとっていた。今回、スイスが1ユーロ=1.2スイスフランの上限撤廃を決定した理由については、いくつかの推測がなされている。その中では、スイス国立銀行が、バランスシート拡大リスク、外貨保有リスクをこれ以上とれなくなったからだという意見が一番有力だと思う。

スイスでは、2014年11月30日に、外貨準備の20%を金で保有すべきという国民投票が行われた。この投票は否決されている。しかし、こうした投票が行われる背景には、金をたくさん保有したいという願望だけではなく、中央銀行が外貨建て資産というリスクの高い資産を大量に保有することは危険であり、金の方がより安全だと感じている人たちが、スイス国民の中に一定割合存在していたことがあるはずである。

スイス国民が不安を感じていたはずのグラフを下記に示す。


スイスBS

スイス国立銀行のバランスシートと外貨建て資産は、リーマンショックの後から急激に増加している。その中の2012年9月6日に、スイス国立銀行は、スイスフランの為替レートに、1ユーロ=1.2スイスフランという上限を設けること発表した。

2015年1月22日にECB理事会が開かれ、その場でECBによる国債購入策が決定された。1月15日の時点において、すでにそのことは確実視されていた。その場合、ユーロからスイスフランへと資金逃避が発生することは必死であった。この環境下で、1ユーロ=1.2スイスフランを維持する場合、巨額の介入の実施を強要されることは間違いない。実際に、スイスフランの上限撤廃の時期の直前には、スイス国立銀行の介入金額、すなわち保有外貨建て資産=バランスシートは急激に拡大していたことがわかっている。さらなるバランスシート拡大と外貨建て資産の保有拡大に対しては、世論の中から反対の声が高まることは十分予想できたはずである。民主主義国家であるスイスは、世論の反対を押し切ってまで、1ユーロ=1.2スイスフランを死守することは、政治的に許されなかったのであろう。こうした政治的な観点からは、1ユーロ=1.2スイスフランの上限維持という政策は、持続可能性がなかったのである。

スイスの世論は、スイス国立銀行が保有する巨額の外貨建て資産の価値が下落し、スイス国立銀行が損失を被ることを嫌ったのである。そこで、スイス国立銀行の純資産の推移のグラフを下記に示す。


SNB純資産推移

スイス国立銀行の純資産の変動は大きい。為替レート、金価格、債券価格などによって大きく変化している。発表済みの最新の決算は2013年のものであるが、スイス国立銀行の年間利益は91億スイスフランという巨額の赤字であった。この最大の原因は、金価格の下落による152億スイスフランの評価損である。2番目に大きかったのは、円安による円建て資産の79億スイスフランの評価損であった。この結果、スイス国立銀行の2013年の決算は大幅な赤字になり、その分、純資産も減少した。ただし、金には金嗜好という特別の魔力がある。一方、外貨建て資産には金のような魔力が存在しない。日本円などの外貨建て資産の値下がりにより、スイス国立銀行が損失を被ったことに対しては、批判があったはずである。

スイス国立銀行は、巨額のバランスシートと巨額の外貨建て資産の保有というリスクをこれ以上とれなくなり、1月15日に1ユーロ=1.2スイスフランという上限は撤廃され、スイスフランの価値は急騰する。すると、スイス国立銀行が保有する外貨建て証券に巨額の為替差損が発生する。そこで、スイス国立銀行が公開している数字から、スイス国立銀行の為替差損と直近の純資産を試算してみた。


SNB純資産試算値

上記の表がその試算値である。スイス国立銀行の外貨建て資産は、ユーロ、米ドル、円、ポンドの順に多い。その割合は、2014年9月末時点のものまでが公表されている。バランスシートは11月末まで公表、外貨準備は12月末まで公表となっている。それらの数字を元にして、2014年11月末-2015年1月23日の間に発生した為替差損の金額を計算した。スイス国立銀行は金の保有額も大きいので、金の評価損も同時に計算した。すると、上記の期間の為替、金の評価損は合計で780億スイスフランという計算になった。この金額を11月末の純資産733億スイスフランから差し引くと、1月23日時点での純資産は47億スイスフランの債務超過という結果になる。

この結果から1月23日時点でのスイス国立銀行は債務超過になっているかどうかは、微妙と言わざるをえない。理由は、マイナス47億スイスフランという数字は、金と為替の評価損益だけから算出した純資産の試算値であることだ。いくつかの仮定や推測が含まれている上、純資産はそれ以外の要因でも変動するからだ。その中で影響が一番大きいものは、スイス国立銀行の保有債券の価格上昇、利息収入である。これを修正すると、スイス国立銀行の純資産は増加するはずであり、その金額は数十億スイスフランか、それを上回る金額になるかもしれない。だから微妙になってしまう。

ただ確実に言えることは、1月15日18時30分直後の1ユーロ=1.2スイスフランの上限撤廃が発表されてからのパニック状態の中で、1ユーロ=0.8スイスフラン台のレートがついていた18時50分前後の数分間においては、スイス国立銀行は100%の確率で債務超過に転落していた。1月16日以降、主として金価格の上昇により、債務超過額の試算値は縮小しつつある。そのため、公式な記録に残る月末時点において、スイス国立銀行が債務超過に転落しているかどうかは、現時点では明らかではない。しかし、1月15日の日中のごく短い期間において、スイス国立銀行が債務超過に転落していたことは、100%間違いない。

スイス国民は、スイス国立銀行のバランスシート拡大と巨額の外貨建て資産にリスクを感じていた。そのため、スイス国立銀行は、これ以上外貨建て資産を増やすことができず、介入を中止せざるをえなくなった。しかしその結果として、スイス国立銀行には巨額の損失が発生し、少なくともごく短期間においては、債務超過にまで転落してしまったのである。これは、大変皮肉な結果としかいうことができない。

スイス国立銀行は、本当に大きなリスクを抱えていたのであろうか。スイス国立銀行のバランスシートの対GDP比率と香港金融管理局、シンガポール金融管理局、台湾中央銀行、日銀の比率を表すグラフを下記に示す。


5ヶ国BS GDP

2014年11月末時点において、スイス国立銀行のバランスシートは日銀よりは大きいが、香港金融管理局、台湾中央銀行、シンガポール金融管理局よりは小さい。また、IMFの資料によれば、サウジアラビアが香港と台湾の間、すなわちスイスの上にある。

次に、スイス国立銀行のバランスシートに占める保有外貨資産の比率を香港金融管理局、シンガポール金融管理局、台湾中央銀行、日銀との比較で示す。


5ヶ国外貨建て資産 BS

シンガポール金融管理局、香港金融管理局、台湾中央銀行の資産の大部分は、スイス国立銀行と同様に外貨建て資産である。サウジアラビアも同様に外貨建て資産である。日銀だけは外貨建て資産が非常に少ない。これは、日本の場合、為替介入を日銀ではなく政府の特別会計で実施しているからである。

上記のグラフは2014年11月末時点である。2015年1月23日時点では、スイス国立銀行のバランスシートの対GDP比率はより上昇しているはずである。それでも、香港の比率までは絶対に到達していない。加えて、香港の比率が上限というわけでもない。

自国通貨高抑制のための介入は無限に可能であるという意見も、非常に有力である。私はこの考え方は間違いだと思う。スイス国立銀行の保有外貨建て資産が、GDPの1兆倍にまで膨らんだ場合、そのはるか手前で、ハイパーインフレとバブルが必ず発生する。つまり、許容できないインフレとバブルの発生という介入の上限が、経済的にも存在するのである。

そこで、インフレとバブルを巡る状況を見ることにする。スイス、日本、香港、シンガポール、台湾の消費者物価の推移を表すグラフを示す。


5ヶ国CPI

バランスシートを拡大し続けてきた5ヶ国であるが、大幅なインフレ率の上昇は発生していない。中でもスイスのインフレ率は低い方であり、2014年12月時点のインフレ率は-0.3%とデフレである。バランスシートの拡大=金融緩和の強化であるが、インフレは発生しにくいのである。

次に、スイスの住宅用不動産価格の推移を表すグラフを下記に示す。


スイス住宅価格

モノのインフレより先に発生するのは、資産価格の上昇であろう。現在の日本のように、資産選択における極端なリスク回避志向がない場合は、緩和マネーはモノよりも資産へと向かいやすい。1980年代後半の日本も、2000年代半ばのアメリカも、モノより先に、資産へと資金は向かった。1月15日よりも前のスイスにもそうした傾向は現れていた。物価が上がらない中、地価は上昇し続けていた。そのため、スイス国立銀行が、1ユーロ=1.2スイスフランという上限を撤廃した理由は、不動産バブルの進行が原因という説もある。これは、中央銀行のバランスシートリスクの限界説に次ぐ2番目に有力な説だと思う。私の目では、地域ごとに違いはあるにしても、平均の住宅用不動産価格が20年以上前の過去最高値さえも更新していないスイスの地価が、バブルであるとは思えない。しかし、日本はスイスより地価の値下がりがずっと激しいが、金融緩和を強化すると不動産バブルが発生するという考え方が根強く存在している。その意味において、不動産バブル回避説という考え方が存在することは理解できる。

不動産バブル回避説が間違っていた場合でも、スイスが今後も無制限の介入を長期間続けた場合、いずれかの時点において、不動産価格はバブルの領域へと上昇していく。不動産バブルを税制やマクロプルーデンスなどの規制で抑制しないのであれば、金融緩和につながる為替介入を停止する必要がある。しかし、不動産バブルを税制やマクロプルーデンスを使って抑制するならば、まだ相当大規模な介入余地が残っているはずである。

経済的には無限の介入は不可能であるにしても、スイスにはまだ介入を続ける余地が十分存在していた。しかし、国民の不安感から生じる政治的圧力をスイス国立銀行の幹部は感じとり、介入を止めてしまった。このツケは、スイスフラン高を通じて経済の供給サイドの弱体化という現象をもたらすことになる。しかし、現在のスイスは、現在の日本とは置かれている環境が異なる。スイスは貿易黒字、経常黒字、対外純資産の対GDP比率が非常に高い。加えて、スイスには移民がたえず流入し続けている。そのため、少子高齢化は進行するが、人口減少は発生せず、人口は増加し続けるのである。この点が日本と決定的に異なる。

私が繰り返し主張してきたことは、日本の場合、人口のさらなる減少が予想されるため、将来、対外純資産の取り崩しに向かわざるをえないという現実がある。それならば、人口減少が本格化する前に、できるだけ対外純資産という貯蓄を増やし続けなければならないという必要性が存在する。世界の中では、対外純負債を抱える国が多く、スイスのような対外純資産がほしくてたまらない国が世界の多数を占める。

しかし、現在のスイスには、これ以上の対外純資産を保有する必要性が存在しない。現在のペースで巨額の経常黒字を維持し、対外純資産を増やし続けても、そうした資産を増やすことに意味を見いだせないのである。過剰な対外純資産は、あっても良いが、なくても別にかまわない。それならば、スイスフランの価値を引き上げてもかまわないはずである。政治的な観点からは、介入が持続不可能だとしても、経済的な観点からは、介入はまだ十分持続可能である。しかし、持続させることにあまり意味が存在しない国であることもまた事実なのである。この点は、香港、シンガポールと共通なのだが、両国は現在もハングリー精神が旺盛である。

次に、スイスフランの実質実効為替レートの長期の推移を表すグラフを下記に示す。


スイス実質実効

2015年1月15日の上限撤廃により、スイスフランの実質実効為替レートは急上昇したが、1月23日時点で、その上昇の程度は1970年代の日本の円高よりも小さなものである。加えて、日本周辺には、先にグラフで示した台湾のように、中央銀行が巨大なバランスシートに外貨建て資産を大きく積み上げるという極端に大規模な為替介入を行って、自国通貨を安く維持し、日本から技術を導入し、日本と同じ製品をより安く作って輸出し、日本を追い越そうとする国が存在した。上記のグラフにも示した中国、韓国、シンガポール、香港だけではなく、日本周辺のアジア諸国の大半が、程度の違いはあれ、台湾と同じような自国通貨安誘導政策を採用してきた。この日本周辺のアジア諸国による極端な近隣窮乏化政策により、1995年まではあまりにも強すぎた日本の輸出産業は、その後、急速な衰退へと向かった。スイス周辺には日本周辺のアジア諸国のような国が存在しない。

スイスは、日本より輸出依存度が高い国ではあるが、輸出環境が日本のように著しく不利な環境へと変化したわけではない。スイスフランが上昇した結果、スイスの輸出産業は打撃を受け、経常黒字は減少するであろう。しかし、その損失は限定的であり、スイスの輸出産業が現在の日本の輸出産業のようにボロボロになることはない。現在確認できる最大の打撃は、株価の急落である。2007年6月のピークから15%ほどまでは下落した。しかし、日本のようにピークから82%も下がることは考えられない。

当時の日銀審議委員であった植田和男氏の研究によれば、過去の中央銀行の債務超過は、インフレ、特に高率のインフレを招いたということであった。その中には、1977年-1979年の西ドイツも記されている。この時の西ドイツは、少しばかりのインフレが発生し、1979年11月に5.4%のインフレ率を記録している。原因は第二次オイルショックだと思うが、債務超過と並行してインフレ率の上昇が発生したことは間違いない。一番インフレ率が低かったのは1997年-2000年のチリであったが、それでもインフレ率は4%以下であったとのことである(ただし、これは植田氏の講演内容の一部であり、全体の趣旨ではない)。

先にグラフを示したとおり、スイスの現状は、わずかなデフレである。中央銀行の債務超過が発生した場合、その後、間違いなく発生する現象は、輸入品価格の低下を通じるデフレの深化である。スイスフランが今後上昇すればするほど、スイス国立銀行の債務超過額は拡大する。しかし、その先に発生する現象は、インフレではなくデフレの深化なのである。従って、中央銀行の債務超過転落は必ずインフレを引き起こしてきたという植田氏の研究結果(正しくは、結果の一部分)は、過去においては正しかったとしても、今後は正しいものではなくなる。中央銀行の債務超過転落の後、デフレが発生することもありえるのである。1ユーロ=1.2スイスフランという為替レートの上限を守るという約束を破った結果、スイス国立銀行は大変大きな信任を失った。信任を失った罰則は、インフレではなく、デフレの深化なのである。

スイスにとって問題となるのは、スイスフラン高の結果生じるスイス国立銀行の債務超過ではない。スイス国立銀行は、現在保有する外国証券等の利子、配当と、外国銀行を中心にした超過準備に対する年率0.75%の利子を、同時に獲得することができる。通貨発行益がバランスシートの資産側だけではなく、負債側にも発生する。その結果、1月末時点でスイス国立銀行が債務超過であった場合でも、遠くない将来、間違いなく債務超過からの脱出が可能である。

スイスは、1ユーロ=1.2スイスフランの上限を死守したとしても、すでに海外に巨額の資産を保有し、外貨という収入も十分に多く、これ以上対外純資産を拡大させることに経済的な意味があまり見いだせない国家である。スイス国民が中央銀行のリスク拡大を望まないのであれば、スイス国立銀行はその要望に応えることはできる。その結果発生するスイスフラン高がもたらすデフレ不況は損失であるが、かつての日本が受け続けた損失と比較すると、大きな損失にはならない。一方、1ユーロ=1.2スイスフランの上限撤廃は、スイス国立銀行の債務超過転落というスイス国民が嫌がっていたリスクを、少なくともごく短期間は現実のものとしてしまった。しかし、スイス国立銀行の債務超過転落は、スイスフラン高の結果であり、原因ではないので、何の悪影響をもスイス経済にもたらさない。中央銀行の債務超過転落が現実のものとなっても、インフレという悪影響が発生しない例が存在するという事実を、今後のスイス経済が証明してくれるはずだ。


2015年2月27日追記
ユーロ・スイスフランレート

1月末のスイス国立銀行のバランスシートが発表された。このバランスシートを使って、1月中のスイス国立銀行の純資産を計算してみると、下記のような推計値が算出できた。なお、1月15日のスイスフランの対ユーロレートの安値は、上記のグラフに記録されている18時45分の1ユーロ=0.8517スイスフランを使用した。

スイス国立銀行の純資産

スイス国立銀行は、1月15日18時45分の安値の時点において、625億スイスフランの債務超過に転落していた。しかし、1月15日の終値では、120億スイスフランの純資産に戻っており、1月末には349億スイスフランの純資産にまで拡大した。この結果、スイス国立銀行が債務超過に転落していたのは、2015年1月15日18時47分30秒前後の数分間という非常に短い期間においてだけであった。

巨額のバランスシートと外貨建て資産を保有するスイス国立銀行の通貨発行益は大きい。今後、スイスフラン高が近い将来に進行するか、そうでなければ急激なスイスフラン高が進行しなければ、スイス国立銀行に債務超過転落は発生しない。しかし、公式な記録に残る月末ベースでの債務超過転落が発生しなくても、記録には残らない短期間の間、スイス国立銀行に債務超過転落が発生していたという事実は、記憶に残しておくべきである。


リンク先記事
中央銀行のバランスシート拡大 リスクからリターンへの発想の転換(*1)


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