国際収支の仕組みと貿易収支を黒字に戻す方法

依然として、円安亡国論がはびこっている。こうした考え方が広まる理由は、国際収支という統計が、複雑怪奇すぎることが一つの原因である。以前、国際収支マニュアル第5版に基づいて国際収支の内容を説明し、貿易収支黒字への復帰が可能であることを示した。その後、国際収支の計上方式が、今年3月10日に発表された1月分から、国際収支マニュアル第6版へとバージョンアップされた。複雑怪奇な国際収支の不正確な点を、より正しいものとすることが一つの目的であったと思う。ただ、全体としてみた場合、第5版よりもさらにわかりにくくなった感じがする。このわかりにくい国際収支マニュアル第6版に基づいて、改めて貿易収支黒字化への道が、政治的には困難なのであるが、経済的には存在することを説明したいと思う。

国際収支マニュアル全体は膨大な量なので、ここでは国際収支を見る際に注意すべき点だけを取り上げる。最初に、国際収支統計で成立している恒等式が、第5版から第6版にどのように変わったかを示す。

国際収支マニュアル第5版で成立していた恒等式
経常収支+資本収支+外貨準備増減+誤差脱漏=0

国際収支マニュアル第6版で成立する恒等式
経常収支+資本移転等収支-金融収支+誤差脱漏=0

第5版の方が多少わかりやすいと思う。経常収支で財・サービスの輸出入と所得の支払い、所得の移転などを算出し、資本収支で資産の輸出入、移転を算出し、その差が外貨準備となる。定義的にはそれでよいのであるが、実際には誤差脱漏があるため、誤差脱漏を含めないと恒等式は成立しない。

第6版になると、「金融収支」、「資本移転等収支」という言葉が登場する。「金融収支」は、第5版の「資本収支」から「その他資本収支」をとり除き、「外貨準備」を加えたものと、完全にではないが、だいたいにおいて一致する。大きな違いは、符号(±)が正反対に変わった点である。問題は、「資本移転等収支」である。これは一体何なのか、すぐにわかる人は少ないと思う。「資本移転等収支」を調べると、第5版の「その他資本収支」が振り替えられたものという説明が、財務省や日銀のHPに多く書かれている。しかし、この説明は、完全に正しいものではない。第6版の「資本移転等収支」は、第5版の「その他資本収支」とは、重要な点で内容が変わっている。ただ、第5版の「その他資本収支」が何かが、すぐにわかる人も少ないと思う。

そこで、経常収支、資本移転等収支、金融収支、誤差脱漏の1996年からの累積収支を下記に示す。


累積経常金融移転誤差

私は、経常収支は金融収支と大体において等しい、という言い方を何度も繰り返し使ってきた。実際に、経常収支は、金融収支と似た動きをしている。しかし、月次で見ると、誤差脱漏が非常に大きく変動するので、単月ベースでは、経常収支と金融収支が大きくかい離することがいくらでもある。そのため、累積をとれば、誤差脱漏の変動は小さくなり、少しずつ増えるだけとなる。それが直近において、「資本移転等収支」の累積値と絶対値がほぼ等しくなるので、経常収支と金融収支はほとんど同じような数字になっている。しかし、これは偶然である。それでも「資本移転等収支」の数値は大きくないので、経常収支と金融収支は、大体において等しくなる。

では、「資本移転等収支」とはいったい何か。資本移転等収支は「資本移転」と「その他収支」という全く概念の異なる2つの収支の合計である。「資本移転」とは、海外へ固定資産を無償で送る、ないしは送り返すことである。わかりやすい例は、海外支店に転勤を命じられ、引っ越しのために家財を外国に送ると、それは「資本移転」の赤字となる。ただ、実際に「資本移転等収支」の大部分を占めるものは、政府が行う無償援助のうち、道路や橋などの固定資産を作るために供与する資金である。政府が無償で食料や医薬品を援助した場合、資産の移転ではなく、所得の移転と見なす。移転された所得で食料や医薬品を無償援助の受入国が購入すると見なし、「第二次所得収支」に入れられる。一方、「その他収支」の定義は、「非金融非生産資産の取得処分」というわけのわからない内容である。具体的には、商標権、鉱山権などの売買が入る。実は、第5版では、特許権、著作権の売買という大物がこの中に入っていたのである。ところが、第6版でこの2項目がサービス収支に振り替えられることになった。そのため、第5版の「その他資本収支」と第6版の「資本移転等収支」は異なった内容になる。「資本移転等収支」は、無償の固定資産の移転と、他の項目に入れることが適切でない資産の売買という、全く異なる2つの内容のものを同じ分類の中に入れているのである。

「資本移転等収支」というものを悪い表現を用いれば、ゴミの集積である。ゴミの集積に「資本移転等収支」という名前を与え、国際収支上の大項目として扱うようになったのである。ストック統計との関係で、「資本移転等収支」が必要な理由は十分に理解できる。しかし、私は、「資本移転等収支」は、経常収支か金融収支の中の一部門に入れるべきであったと非常に強く感じる。仮に、「資本移転等収支」が経常収支か金融収支の一部門であった場合、先に示した恒等式は、

経常収支-金融収支+誤差脱漏=0

となる。誤差脱漏は実際の統計上には存在するが、理論上は存在しない。従って、理論的には、

経常収支-金融収支=0 または 経常収支=金融収支

が成立することになる。こうした分類であれば、国際収支の説明が非常にやりやすくなる。これまでの、「経常収支と金融収支は大体において等しい」といったあいまいな修飾語なしに、「理論上では、経常収支と金融収支は等しい」と言いきることができたのである。それが、「資本移転等収支」というゴミの集積を大項目にしてしまったため、国際収支の入門レベルで必要な理解のレベルが、非常に高度なものになってしまった。IMFの国際収支マニュアル第6版を作った人たちは、利用者の立場をあまりにも無視しすぎている。理論的には、正確性を高めたかもしれないが、万人が国際収支とは何かを理解する入門編を非常に難しいものにしてしまった。その結果、国際収支についての無理解や誤解が、変わることなく広がった状態が、全く改善されないまま続いている。IMFの国際収支マニュアル第6版を作った人たちの罪は、非常に大きいと思う。

以上のことを頭に入れた上で、下記のグラフを見ていただきたい。


経常貿易所得収支

恒等式は下記のようになる。

貿易収支+サービス収支+第一次所得収支+第二次所得収支=経常収支

厳密には、第一次所得収支と第二次所得収支は全く別個のものである。しかし、上記のグラフでは、便宜的に両者を合計して所得収支として掲載した。日本の場合、第二次所得収支の金額が小さいので、所得収支は、利子や配当が中心になり、短期で大きく変動することはない。日本の経常収支が悪化している最大の原因は、貿易・サービス収支の中の、貿易収支の悪化である。最近のサービス収支は、横ばいに近いからだ。

日本の貿易収支はなぜ悪化したのであろうか。この答えは複数あると思う。多くの人は、日本製の製品の国際競争力が低下したから、と答えるであろう。普通は、これで正解になるかもしれない。しかし、私は、これが唯一の答えだとは思わない。ここで、金融収支と資本移転等収支を使わなければならない。金融収支は、正確性を犠牲にしてわかりやすい言葉に直すと、国内から国外への資金の流出入を意味する。資本移転等収支は、ゴミの集積なので、ここでは無視することにする。先の答えが唯一の答えではない理由は、日本製の製品の国際競争力が低下した場合でも、金融収支が変わらなければ、経常収支も変わらない。金融収支が変わらない場合、貿易収支は悪化することなく、円安だけが発生し、日本製の製品の国際競争力は、円安による価格低下により以前と変わらなくなる。日本の貿易収支が悪化するためには、国際競争力の低下だけでは不十分であり、なぜ金融収支が同時に悪化したのかという理由についての答えも出す必要がある。その答えとして一番標準的なものは、貿易収支が悪化したため、日本が外国から借金を増やしたはずである、従って、貿易収支の悪化に等しい金額だけ金融収支も悪化した、というものになると思う。

一方、これとは正反対の考え方も存在する。為替レートはヘッジファンドを始めとする巨大な投機筋の売買によって決定され、輸出や輸入の実需の金額は小さすぎて、為替レートには何の影響も及ぼさない、という考え方である。この考え方に立った場合、まず先に金融収支が決定されることになる。そして、これと等しいように経常収支と貿易収支が、為替レートが変動することによって決定される、という順序になる。この場合、為替レートは、日本製品の国際競争力と無関係に決定されることになる。従って、日本の貿易収支が悪化した原因は、日本製品の国際競争力ではなく、金融収支の悪化が原因ということになる。超円高が進行中の時は、こうした主張がしばしば見られ、為替介入ですら巨大な投機筋に打ち勝つことはできないから無駄である、という主張も多く聞かれた。

私の考え方は、両者の中間である。貿易収支は、日本製の製品の国際競争力と金融収支の両方によって決定される、と考える。ある時は、大半が国際競争力が原因であり、ある時は、大半が金融収支が原因であり、ある時は、両者が半々ということもあると考える。

私は、2008年9月のリーマンショック直後の超円高の最初の局面では、金融収支が先に動いて黒字が減少し、為替レートが円高方向に進む圧力がかかり、その金融収支の黒字減少に見合うだけの経常収支と貿易収支が減少したと考えている。つまり、金融収支の悪化が先で、円高と貿易収支の悪化は後なのである。投機筋の売買と、海外にいる円建ての金融資産の保有者が行うヘッジ売買の中で、金融収支の黒字の減少が発生し、その過程で大量に発生する円買い・外貨売りによって、超円高が発生し、その結果、貿易収支が悪化したと考えている。

超円高が発生し、貿易収支が悪化する中で、日本の輸出産業の何割かは、回復不能の大打撃を受け、生産拠点を海外に移す企業も増加した。それに加えて、原発が停止したため、エネルギーの輸入金額も増加した。貿易収支の赤字の大元の原因は2つあり、一番大きな原因は、リーマンショック直後の金融収支の黒字減少の結果発生した超円高である。二番目は、原発代替のエネルギー輸入の増加である。

ただし、貿易収支の赤字の、大元ではなく現在の原因は、この2つではなくなっている。過去に超円高が数年間続いたため、日本の輸出産業の死滅や空洞化によって、日本製の製品の国際競争力が大きく低下してしまった。現在においては、日本製の製品の国際競争力の低下と原発停止という2つが、貿易収支の赤字の大きな原因へと変化している。このため、超円高という大元の一番目の原因が是正されたにもかかわらず、貿易収支の赤字は減少しないのである。

2013年4月に異次元緩和が実施された。普通は、大規模な金融緩和が実施されると、資金が国内から国外へと流出するのである。しかし、この異次元緩和が実施された前後から、資金が国外から国内へと流入してきた。そのため、以前は、国内から国外へとネットの資金流出が発生していたのであるが、ネットの資金流出金額が少なくなり、ゼロ近辺にまで減少してしまった。この結果が、金融収支の黒字消滅であり、同時に経常収支の黒字消滅であった。日本は長らく資金の流出国であった。そのピークが2007年であり、この年の金融収支の黒字は26兆円、経常収支の黒字は25兆円であった。それが、2013年の異次元緩和実施の前後から、海外へのネットの資金流出がゼロ近辺にまで減少し、金融収支の黒字もゼロ近辺にまで減少してしまったのである。

2007年と2013年の最大の違いは、この期間に、資金のネットの流出金額が、26兆円以上減少したことである。逆に言うならば、現在でも、資金のネットの流出金額が26兆円を維持できていたと仮定するならば、2007年並の経常収支の黒字25兆円、貿易・サービス収支の黒字10兆円は、実現可能なのである。金融収支の黒字が現在のゼロ近辺から26兆円レベルに拡大しさえすれば、経常収支と金融収支は大体において等しくなるため、貿易・サービス収支の黒字が10兆円程度まで増えざるをえないのである。

金融収支の黒字をゼロから26兆円まで増やす方法は存在する。日銀が金融緩和の強化をすればよい。異次元緩和の第2弾を実施し、日銀による現在の国債購入金額年間50兆円を、最低でも100兆円以上にまで増やすべきなのである。機関投資家は、ネットの国債売却金額を、現在よりも50兆円増やすことを強制させられる。国債の売却代金が50兆円増加するのであるから、その何割かが対外証券投資に回るであろう。仮に26兆円の資金が国外へと流出した場合、特別な資金流入を引き起こす事件が発生しなければ、年間26兆円の金融収支の黒字も実現が可能になる。所得収支の金額はあまり変わっていないため、この場合、経常収支の黒字は25兆円、貿易・サービス収支の黒字は10兆円に戻るのである。

しかし、日本国内では、金融収支の黒字が拡大すると、金利が急上昇して日本経済が破滅すると考えている人が常に存在する。現在の日本においては、金融収支の黒字拡大が原因で、金利が急上昇することは100%ありえない。海外への資金の流出金額が増えると、経常収支の黒字金額が拡大するだけである。現に、2007年は金融収支が26兆円の黒字であり、ネットの資金の流出超過が26兆円発生していた。しかし、金利に上昇圧力は全くかからなかった。加えて、現在は、金融緩和が大幅に強化されているため、2007年当時よりはるかに大きな資金が、国内にあり余っているのである。このような環境下で、資金の海外流出金額が拡大した場合、経常収支の黒字が拡大し、同時に円安が進行するだけである。輸入インフレの結果、物価上昇分に見合った金利の小幅上昇は考えられるが、金利の急上昇が発生することは100%ありえないのである。

現在の日本では、巨額な政府債務と中長期的な財政赤字の拡大懸念が、金利の急上昇という不安を恒常的に引き起こしている。こうした環境下で金利の急上昇が発生するとすれば、金融政策とは無関係であり、政府が国債の発行金額を急激に増やすか、将来、大きく増やす計画を決める場合だけである。その場合、多くの投資家が国債を売り始め、国債価格は暴落し、金利は急上昇する。しかし、政府は、国債発行の安易な拡大が、金利の急上昇を引き起こすことは十分理解している。遠い将来ではなく、近い将来という限定条件をつけた場合、政府がそのような馬鹿げた政策を打ち出すことはない。唯一の可能性は、消費税増税の延期である。しかし、金融緩和の強化が日本経済をデフレ不況から脱却させ、今年4月の消費税増税を可能にする一つの条件を作り出したわけであり、金融緩和の強化が消費税増税を妨げる要因にはなりえない。

日本以外の国においては、金利の急上昇が発生することはありうる。一番多いケースは、対外純負債の金額が大きく、国内の供給サイドが非常に弱い国である。この場合、外国からの借金が返せなくなる可能性が高まると、国外だけではなく、国内の投資家もその国の債券を投げ売りし始める。最近の典型的な例は、ギリシャであり、実際に金利の急上昇が発生した。ギリシャとは正反対の位置にあるドイツのような国では、絶対に金利の急上昇は発生しない。現在の日本は、対外純資産の金額が世界最大であり、ギリシャよりもドイツに近い。日本において、資金の国外への流出拡大が原因で金利の急上昇が発生することは、100%ありえない。

異次元緩和の第2弾により、国外への資金の流出金額が急拡大して、金融収支の黒字が急拡大すると、経常収支の黒字の急拡大も実現する。日本の国際競争力が大きく低下した状況で、経常収支の黒字、あるいは貿易・サービス収支が黒字化し、黒字が大幅に拡大する間は、為替レートが大きく円安方向に振れなければならない。2007年には、1ドル=118円で、25兆円の経常収支の黒字と10兆円の貿易・サービス収支の黒字が実現した。具体的な為替レートはわからないが、現在、2007年レベルの貿易・サービス収支の黒字が実現可能になる為替レートは、2007年時点の1ドル=118円よりは、はるかに円安になることが必要である。

ただこれが実現するためには、2つの条件をクリアする必要がある。一つは、円安は自国窮乏化政策という国内世論であり、もう一つは、円安は一国繁栄型の近隣窮乏化政策という外国からの非難である。国内世論は誤りであるが、外国からの非難は残念ながら多くの部分が正しい。

円高でも円安でも、為替レートが動けば、国内で利益を獲得する人、損失を受ける人が、必ず発生する。円安の結果、貿易・サービス収支が改善し始めれば、日本全体の所得は必ず、利益>損失となる。円高が進行し、貿易・サービス収支が減少する時には、日本全体で、利益<損失であり、日本は不況に苦しむしかなかった。2012年11月から現在までの間は、広義の円安の利益である資産の増加は発生した。しかし、貿易・サービス収支が改善していないので、所得の増加という狭義の円安の利益はまだ発生していない。それでも、資金の流出金額が拡大すれば、貿易・サービス収支が改善し、所得面においても、利益>損失になることは間違いない。

円安亡国論が幅をきかす理由の一つは、円安が発生して以降、資産は増加したものの、貿易・サービス収支の赤字が少し拡大しているので、所得面では、利益<損失が続いているからである。加えて、利益が一部の大企業に偏っているので、それ以外の中小企業や消費者は大きな損失を被っているからでもある。しかし、この場合、円安の進行を止めてはいけない。円安による所得面での利益を、下手をすれば永久に獲得できなくなるからだ。必要な政策は、金融収支の黒字拡大、ないしは貿易・サービス収支の改善が発生するまで、金融緩和を強化することである。その際、必ず円安が進行するが、貿易・サービス収支が改善すれば、資産面だけではなく、所得面でも、利益>損失となる。ただし、市場に所得分配を公正にする力は存在しないので、政府がいくつかの政策を発動させて、円安により利益を獲得する主体から、損失を受ける主体へと、所得の何割かを移転させることを促す必要性は存在する。大企業が、従業員と下請け中小企業に利益を分配すれば、各主体が獲得する所得は増加し、円安による所得増加というメリットを実感できる人が増えることになる。

国際標準とは異なる誤った国内世論の壁は、論理的に人々を説得しながら、何としても乗り越えなければならない。この際、わかりにくい国際収支統計が存在するため、多くの人にわかりやすい言葉で説明することは、簡単なことではない。「経常収支と金融収支は等しいので、金融収支の黒字を増やせば、経常収支の黒字も、必ず同じ金額だけ増える。」と、一番最初に書くことができない。そのため、IMFの国際収支マニュアル第6版を作った人たちの罪は非常に大きいと、強烈な不満や憤りを感じざるをえないのである。

誤った国内世論の壁を乗り越えることができたとしても、外国からの非難の壁を乗り越えることは困難であろう。異次元緩和の第2弾を実施し、資金の国外への流出金額が拡大すると、円安の進行とともに、日本の貿易・サービス収支の改善と経常収支の黒字拡大が始まる。そうなると外国からの非難は一気に高まるであろう。足元の貿易収支は、年率で10兆円前後の赤字が続いている。この巨額の赤字を黒字に戻すことは、経済的には可能である。しかし、国際政治的には実現不可能である。異次元緩和の第2弾が実施され、円安進行と貿易収支の改善が続いた場合、日本は、アメリカだけではなく世界中から、一国繁栄型の近隣窮乏化政策はけしからんと、袋叩きにされるであろう。国内世論とは異なり、外国からの非難は、全てとは言わないが多くの部分が正しく、反論の余地はあるが大きなものではない。実際問題として、大幅な円安と貿易収支、貿易・サービス収支の黒字復帰は、国際政治的には実現不可能である。

通貨安が自国窮乏化につながる国は確かに存在する。ただしそれは、先にあげたギリシャのような国である。超少子高齢化、人口減少が進行する現在の日本は、ドイツからギリシャへと向かう道を歩んでいる。しかし、この道を進んではならない。何としても現在のドイツ、過去の日本のような経済大国への道へと引き返さなければならない。そのためには、まずは誤った国内世論の壁を乗り越えなければならない。その先は、国際政治上、許される限りのギリギリの線まで、金融緩和の強化を続けるしか道は存在しないのである。

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アジア諸国の近隣窮乏化政策と日本経済の低迷

円安は日本経済にとってマイナス、という声が相変わらず聞こえてくる。特に1ドル=110円にタッチした頃は、これ以上の円安が進行すると日本は窮乏化する、という考え方が、違和感もなく受け入れられていた。黒田日銀総裁は、「行き過ぎた円高が是正され、円安になってきたということは全体として経済にはプラス。」と発言している。しかし、円安メリット論者の援護発言があまり聞こえてこないので、黒田総裁がやや孤立しているとすら感じられる。

私の考え方は、仮に1ドル=80円がずっと継続していた場合と現在とを比較すれば、現在の日本経済の方がはるかに良くなっている、と考えている。しかし、円安進行前と現在とを比較した場合、日本経済が円安により獲得した狭義の利益は、損失よりも少ない、利益を損失よりも大きくするためには、円安がいっそう進むことが必要である、と考えている。この考え方は、少し前に書いたとおりである。

今回は、円安誘導の必要性を、また別の角度から見ることにする。今まで何度も触れてきた考え方であるが、IMFのデータが更新された機会に、もう一度まとめて示したいと思う。現在の日本に必要な政策は、長年、アジア諸国が実施してきた円高・アジア通貨安という近隣窮乏化政策を解消させることである。現在の円レートは、少なくともアジア諸国の通貨に対しては割高であり、円安の是正ではなく、円高の是正が必要なのである。その理由を説明したいと思う。

まず、現在の円レートが、IMFが算出している購買力平価からどれほど割高、あるいは割安であるかを見る。そこで、円レートの購買力平価からの割高・割安度合いを他の先進諸国の通貨と比較する。なお、「購買力平価からの割高・割安度合い」という言葉は長いので、ここではこの言葉に「割高度合い」、「割安度合い」のどちらかを略語として使用することにする。円レートと他の先進諸国の通貨の割高度合いを表すグラフを下記に示す。


購買力平価に対する割安度合い 対先進国

1995年前後の時期に、超円高の状態にあったことは間違いのない事実である。2012年のアベノミクス相場以前の円レートもやや割高であったが、アベノミクス相場によって割高感は解消された。なお、2014年の円の購買力平価は102円05銭である。そして、それよりも0.4%割安である1ドル=102円44銭を、IMFは2014年の円レートとして採用している。これは、今年前半の円の平均レートだと考えられる。現在では当時より、対米ドルでは円安が進んでいる。ただ、ユーロの対ドルレートは、今年前半平均との比較で、円とあまり変わらないくらいの率だけ下落している。従って、円は、多くのヨーロッパ諸国の通貨に対しては、上記のグラフと変わらない位置にあるはずである。

次に、円レートの割高度合いを、日本周辺のアジア諸国と比較することにする。「日本周辺のアジア諸国」という言葉も長いので、ここではこの言葉に「アジア諸国」という略語を使用することにする。円とアジア諸国の通貨の割高度合いを表すグラフを下記に示す。


購買力平価に対する割安度合い

円レートの割安度合いは、アジア諸国の通貨の割安度合いを、大幅に下回っていることは間違いない。だが、正しいことはここまでである。この次に、「円レートは、購買力平価で見た場合、アジア諸国の通貨に対して大幅に割高である。」と言ってしまうと、完全な誤りとなる。

購買力平価にはたびたび言及してきたが、その扱い方は難しい。IMFの購買力平価が為替相場の適正レートに等しいならば、通貨問題は発生しない。すべての国の通貨の市場レートを、IMFの購買力平価に一致するように動かせばよいからだ。残念ながら、IMFの購買力平価は、為替相場の適正レートと一致しない。一致しないのであるが、適正レートと無関係というわけでもない。生活水準の高い国の通貨は、購買力平価に対する割高度合いが大きくなり、生活水準の低い国の通貨は、購買力平価に対する割安度合いが大きくなるという傾向は存在する。市場レートの購買力平価に対する割高度合いは、先進国ほど割高になりやすく、発展途上国ほど割安になりやすいことを、バラッサ=サミュエルソン効果(*1の最終段落を参照)として説明したことがある。

最初のグラフに示した、先進諸国の通貨の割高度合いを使って、「円は割高ではない。」と断言することは、厳密には正しくない。しかし、だいたいにおいては正しい。理由は、先進諸国の間の生活水準に格差は存在するが、それほど大きなものではないからだ。一方、アジア諸国の生活水準の格差は、先進諸国の間の生活水準の格差よりも大きく、その格差を無視することができない。従って、購買力平価に対する割安度合いを見て、その国の通貨は割安であると決めつけてはならないのである。

アメリカや日本のような、それなりに豊かな国は、インドやインドネシアのような、かなり貧しい国よりも、市場レートの割安度合いは小さくなりやすい。これは言い換えると、発展途上国が経済成長し、豊かになるにつれて、その国の通貨の購買力平価に対する割安度合いは、大きな割安から少しずつ小さな割安へと変化していくのが自然な姿であることを意味する。この法則も、常に成り立つわけではない。しかし、成り立たない場合、何らかの原因があるはずである。バラッサ=サミュエルソン効果が発生しない場合は、その原因を考える必要性が存在する。

ここでは豊かさの尺度に、購買力平価ベースの1人当たりGDPを用いることにする。「購買力平価ベースの1人当たりGDP」という言葉も長いので、ここでは、この言葉に「1人当たりGDP」という略語を使用することにする。アジア諸国の1人当たりGDPの、アメリカの1人当たりGDPとの割合を表すグラフを下記に示す。

一人当たり購買力平価GDP

上記のグラフの意味を別の角度から説明すると、アジア諸国が、アメリカとの相対比較で、どれほど豊かであるかを表すグラフでもある。アジア諸国の多くは、水準は異なるが、貧しい国から豊かな国へと進みつつある。唯一、フィリピンだけが、相対的な1人当たりGDPが、少しだけ低下している。日本は、ほぼ横ばいである。つまり、日本とアメリカとの生活水準の格差は、1980年も2014年もほとんど変わっていない。具体的には1980年67.9→1991年83.4→2014年68.9と推移している。1980年代のバブルの時代には、少しばかりアメリカとの差が縮まり、バブル崩壊後の失われた20年の間に再び差が少し開き、結局は元の水準に戻っている。この1人当たりGDPの動きと、バラッサ=サミュエルソン効果という観点から見ると、1985年以降の超円高は全く不要であったと言えるかもしれない。しかし、円レートは1985年のプラザ合意直後から急上昇に転じた。1995年までの超円高は異常としかいいようがない。1995年に円レートは頂点を打ち、割高度合いもようやく縮小に転じる。そして直近は、対米ドルでの割高度合いがほんの少しのマイナスになっている。

一方、アジア諸国の通貨の割安度合いは、日本とは全く異なっている。アジア諸国の多くは、日本よりも1人当たりGDPが継続的に増加してきた。日本は豊かになる途中で過剰ともいえる円高を経験してきた。アジア諸国の多くはそうした通貨高をほとんど経験していない。アジア諸国の多くは、通貨を割安に操作し続けることにより輸出を伸ばし、1人当たりGDPを引き上げてきたのである。通貨高にもかかわらず成長を実現してきた日本と、通貨安を武器に成長してきたアジア諸国との間には、大変大きな違いが存在する。

上から2番目のグラフで、日本以外のアジア諸国の通貨の割安度合いが拡大した局面において、市場の需給関係だけで拡大した局面はもちろん存在する。しかし、固定相場制下での国家による平価切り下げが原因であった場合も存在する。後で説明するが、中国の平価切り下げがこれに相当し、それは強烈なものであった。

アジア諸国の通貨の割安度合いが大きく維持されているもう一つの理由は、政府による大規模な為替介入である。アジア諸国の外貨準備の対GDP比率を表すグラフを下記に示す。


外貨準備対GDP比率

香港、シンガポール、台湾、タイ、マレーシア、中国、フィリピンの外貨準備の対GDP比率は上昇し続け、現在でも日本を上回っている。上から3番目の1人当たりGDPのグラフで示したように、シンガポールと香港は日本よりずっと豊かな国になっている。しかし、この2ヶ国の豊かさは、国家の大規模な介入という為替操作があって成立しているのである。この大規模な為替操作がなければ、この2ヶ国は繁栄していたであろうが、今ほどの繁栄はなかったはずである。

なお、アジア諸国の為替介入は、通貨価値の引き下げや維持を第一の目的としたケースは存在するが、それだけではない。最大の目的が、十分な外貨準備を保有し、国際収支危機が起こることを防ぐために為替介入を実施したケースの方が、数としては多かったと思われる。ただ、「十分な」の意味は、「過剰な」の意味とほとんど変わらない。そしてまた、国際収支危機防止のための為替介入の効果は、為替操作のための介入の効果と、結果は同じになる。為替操作目的だけではなく、外貨準備積み上げ目的の介入もまた、結果としてバラッサ=サミュエルソン効果の発生を防ぐことにつながったことは間違いない。

外貨準備の対GDP比率は、韓国、ベトナム、インド、インドネシアは日本より小さい。このうち、ベトナム、インド、インドネシアの比率は、日本よりも明らかに小さい。韓国も日本より小さいが、ほんの少しである。つまり、為替操作の規模は、日本を下回っているように見える。しかし、実質的には、韓国の為替操作の規模は、日本を上回っているのである。その理由は、分母に当たるドル建ての名目GDPの伸び率が高いことがあげられる。アジア諸国のドル建てGDPの推移を、1980年=100とした場合のグラフを下記に示す。


ドル建て名目GDP

見てわかるとおり、分母のドル建てGDPの上昇率は、中国、シンガポール、韓国の順に高い。日本は最下位である。分母が大きくなったため、韓国の介入規模が小さく見える。韓国の介入が、日本より効率的であるのだ。効率的な理由として、韓国ウォンは円とは異なって売買に少し制限があるので、韓国ウォンの市場規模が、GDP規模との比較で小さいことがあげられる。市場規模が小さければ、少額の介入で韓国ウォンの上昇を押さえ込むことが可能になる。そのため、実質的には日本よりも韓国の方が為替操作の規模が大きいと言っているわけである。

アジア諸国、具体名をあげると、香港、シンガポール、台湾、タイ、マレーシア、中国、韓国といった国々は、大規模な為替介入により、本来ならば、バラッサ=サミュエルソン効果により上昇しているはずの自国の通貨価値を、割安のまま維持することに成功したのであった。ベトナム、インドネシア、インドは、為替介入を実施してきたが、その規模は日本よりは小さかった。フィリピンは、大規模な為替介入を実施してきたのであるが、それにもかかわらず、アメリカとの相対比較で豊かになれなかった点が、他の国とは異なっている。

くり返すが、アジア諸国の多くは、平価切り下げや大規模な為替介入を実施することにより、為替レートを割安に維持することに成功してきた。その結果、割安な賃金で割安な製品を作り、輸出し続けることに成功してきた。割安な製品を作るための技術は、多くの先進諸国から移転してきたはずであるが、その最大の移転元は日本であった。そしてその技術を使った製品を世界中に輸出したのであるが、そうした製品の輸入割合が一番高い先進国も、日本であった。アジア諸国の多くは、そろって為替を安く操作し、主として日本から導入した技術によって作られた製品を、日本に多く輸出することによって、経済成長を遂げてきた。これは、アジア諸国の多くが、そろって教科書的な近隣窮乏化政策を実施し、結果として高度経済成長を実現することに、見事に成功したことを意味する。そして、割安な製品の輸入割合が一番高い日本は、教科書通りに見事に窮乏化してしまったことをも意味する。

日本の輸出競争力が、アジア諸国に対して大きく劣ってしまった原因は、アジア諸国の為替操作だけではない。アジア諸国が、長期間、アジア通貨安を維持し続けてきた点については、アジア諸国の側に責任がある。一方、日本側にも長期間、円高を容認してきたという責任がある。つまり、長年の超円高・アジア通貨安の半分は、日本側に責任があったのである。

そして、多くの人たちが考えているように、アジア諸国はまだ貧しいから、言い換えると、経済発展段階の差から発生する輸出競争力の差も、当然存在する。日本の輸出競争力が低下した原因は、私は、おおざっぱに、経済発展段階の差から生じた割合が50%、超円高・アジア通貨安から生じた割合が50%と考えている。ただ国別に見た場合、シンガポール、香港、台湾、韓国に勝てなくなった理由の大部分は、超円高・アジア通貨安の結果だとみている。マレーシア、タイ、中国に勝てなくなった理由が超円高・アジア通貨安から生じている割合は、50%を下回っていると思う。

日本が中国の製品に勝てなくなった理由が、超円高・人民元安よりも経済発展段階の差の割合の方が高いことは事実だと思う。しかし、中国の為替操作は、他のアジア諸国に見られない強烈なものであったことも事実である。上から2番目のグラフで示したように、1980年-1994年の期間に、中国は、人民元の割安度合いを、104から30へと71%も引き下げた。これを名目為替レートで見た場合、人民元レートは、1979年末-1994年末の15年間に、対ドルで83%、対円で91%も切り下げたのである。中国のような低賃金国家が工業生産力をつけてきたのであるから、日本の高賃金では競争に勝てるはずがない、日本はもの作りをあきらめるしかない、という意見が現在の日本で広がっており、多数説になっているかもしれない。この考え方の最大の誤りは、中国は最初から低賃金国家ではなかったということである。中国の低賃金は、1979年末-1994年末の15年間に、国家が人民元の為替レートを対米ドルで83%、対円で91%切り下げるという極端に大規模な為替操作を実施した結果、人為的に作り上げられた低賃金なのである。

こうした大規模な為替操作が可能であった一つの理由は、1980年時点、あるいはそれ以前の毛沢東時代の人民元レートが、当時の中国の生活水準から見た場合、割高であったことが一つの原因である。それにしても、15年間に83%とか91%の切り下げとは凄まじい切り下げである。中国は、国家成立以降、貧しい割には賃金が安くない国家であり続けた。それが、鄧小平が改革・開放路線を採用し始めた直後から、15年にわたる大規模な為替操作により、賃金が極端に低い国家へと大きく変貌したのであった。人民元の平価を大規模に切り下げた結果、賃金が劇的に低下し、中国製品の国際競争力が飛躍的に上昇した。そして、経常収支の黒字が累積したため、2000年頃から通貨に上昇の圧力がかかった。すると、現在までに4兆ドル近くの超大規模な人民元売り・外貨買い介入を実施し、人民元レートの上昇を最小限に抑えてきた。中国製の製品の国際競争力を語る際、こうした極端に大規模な為替操作があったことを忘れてはならないのである。

ただし、仮に中国が為替操作を実施せず、為替レートを完全に変動相場制にゆだねていた場合でも、人民元レートは1980年以降に、かなり安い水準にまで下落していたはずである。その場合、2014年の人民元の購買力平価は、今以上に低かったはずであるからだ。為替操作がなかった場合でも、経済発展の段階の差としての人民元安は、発生していたであろう。その結果、労働集約的な産業は、日本から中国へとかなりの程度移転していたはずである。為替操作を実施しなかった場合でも、現在よりは貧しかったであろうが、それなりの経済成長を遂げていたはずである。そして何年先かわからないが、いずれは日本を追い越し、世界第二の経済大国にまでのぼりつめていたであろう。中国の超大規模な為替操作は、中国の経済成長に必要な時間を圧縮するのに、大変大きく貢献したことは間違いない。

日本経済が長年低迷してきた原因は、アジア諸国による近隣窮乏化政策だけが原因ではないことは、先に書いたとおりである。しかし、アジア諸国による近隣窮乏化政策が大きな低迷原因の一つではあったことに間違いはない。アベノミクス相場開始以降の円安により、欧米諸国の通貨に対する円の割高は、かなり多くが解消されたと思う。しかし、割安に操作されているアジア諸国の通貨に対する円の割高は、まだ解消されていない。

まず最初に、アジア諸国が長年実施してきた近隣窮乏化政策と、円高・アジア通貨安は現在でも解消されていないという事実を認識することから始めなければならない。こうした認識が広まったならば、円高・アジア通貨安の解消は、当然必要であるという理解も広まるはずである。円高・アジア通貨安が完全に解消された場合、日本の輸出は多少は増えるであろうが、すぐに大きく増えることにはならない。理由は、長年にわたる超円高・アジア通貨安の結果、日本の多くの輸出産業が死に絶えてしまったからである。一旦、死んでしまった産業を生き返らせることは、不可能ではないが、非常に困難である。アベノミクス相場の開始以降、円安・ドル高にもかかわらず、先進諸国に対する日本の輸出が増えにくくなっている理由と同じである。それでも、競争の前提条件を等しくするために、円高・アジア通貨安の解消は行われなければならない。その場合、円安が自国窮乏化政策であるという認識が、とんでもなく間違った考え方であるという理解もまた、同時に広まるはずである。


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