金融緩和と賃金の上昇

野田前総理が衆議院解散を明言してから、約3ヶ月。期待が先行して、円安株高が進行し、経済の雰囲気は大きく変化した。実質GDPは、昨年4-6月期から10-12月期まで3四半期連続してマイナス成長を記録した。確報では変わるかもしれないが、3四半期連続のマイナス成長が続けば、景気後退が正式に認定されるであろう。一方、昨年11月を底にして、いくつかの景気指標は急速な改善を示している。従って、景気後退の期間は2012年3月-2012年11月であり、12月以降は、景気回復の局面に入った可能性が高い。国民の何割かは、景況感の回復を既に実感しているようなので、安倍政権の経済政策は、幸先の良いスタートを切ったことは間違いない。当初は、安倍政権の金融政策に対しては、インフレを起こすことは不可能、金利が急上昇する、などを始めとした様々な批判があったが、そうした批判の声は、多少は和らいだように感じられる。現在、聞こえてくる一番大きな批判と思われるものは、今後、インフレが起こったとしても、賃金、給料、所得が上がらなければ意味が無い、と言うものであろう。

今回は、近い将来、賃金の上昇が発生する可能性が非常に高いこと、そして長期的には、賃金の下落ではなく、賃金の上がり過ぎが、より大きな問題となるであろうことを説明する。

まず、過去の日本経済において、失業率と賃金上昇率がどのように変化してきたかを下記に示す。

失業率と賃金上昇率
上記の失業率と賃金上昇率の関係を示すグラフは、「フィリップス曲線」と呼ばれている。フィリップス曲線を使って金融緩和が失業率と賃金、物価に及ぼす影響を説明する方法は、リフレ派の中でも見解が統一されているわけではない。私の考え方は、一番原始的な考え方である。通常、フィリップス曲線の縦軸は、賃金上昇率ではなく、物価上昇率であるのだが、ここでは、アルバン・フィリップスが最初に描いたように、縦軸を賃金上昇率にした。日本の場合、賃金上昇率と失業率の間に、かなり明確なトレード・オフの関係が見い出せる。上記のフィリップス曲線から、日本において、賃金が上昇に転じる失業率は、だいたい3%台後半であることが理解できる。保守的に見積もって、3.5%である。この3.5%は、NAIRU(Non-Accelerating Inflation Rate of Unemployment:物価上昇を加速させない失業率)と呼ばれる。厳密には、上昇する対象が、賃金と物価で異なっており、同じではないのだが、ここでは、近い概念なのでNAIRUと呼ぶことにする。日本のNAIRUについては、いくつもの研究機関、学者などが推計値を出しているが、3%台後半-4%台前半というものがほとんどであると思う。つまり、失業率が3.5%まで低下したならば、非常に高い確率で賃金が上昇し始めるのである。2012年平均の失業率は、4.3%、失業者数は、285万人であった。従って、失業率があと0.8ポイント、失業者数が56万人減少すれば、賃金が上昇に転じる可能性が高い。では、失業者数が56万人減少するのは何時であろうか。それは、近い将来である。その説明として、生産年齢人口、労働力人口、就業者数、失業者数の過去の変動数を表すグラフを下記に記す。

生産年齢人口、労働力人口、失業者数の変化

まず、グラフ上の黒色の生産年齢人口増減を見ていただきたい。1994年にピークを迎えた日本の生産年齢人口は、2001年以降、毎年数十万人レベルで減少している。1947年の第一次ベビーブームで誕生した人たちが、満65歳を迎える最初の年である2012年は、生産年齢人口は103万人減少した。2013年-2015年の生産年齢人口の減少数は、国立社会保障・人口問題研究所の中位の予測値である。この生産年齢人口の急激な減少は、あと3年は続くのである。もちろん、満65歳を迎えた就業者が全て退職するわけではないが、65歳を境にして、就業率が大きく低下することは間違いない。2013年-2015年の3年間に、生産年齢人口は、336万人減少するのである。2012年の場合、生産年齢人口減少数は103万人、労働力人口減少数は36万人、就業者減少数は19万人、失業者減少数は17万人であった。上記のグラフで将来の労働力人口、就業者数、失業者数の減少数の将来を矢印で示したが、これは予想ではなく、保守的に見たシナリオの一つである。2012年は、一言で言えば、ミニ景気後退の年であった。そのような年においても、生産年齢人口の急減により、失業者数は減少したのであった。この保守的な一つのシナリオでは、労働力人口が36万人減少した2012年と同じスピードで、2015年まで労働力人口が減少し、かつ経済状況が多少改善した場合の就業者数と、失業者数の変化を示したものである。この保守的なシナリオよりさらに悪いシナリオとして、2012年のようなミニ景気後退の経済状況があと3年間続き、失業者数が年平均17万人減少するケースを考える。この場合でも、3.3年間で失業者数は56万人減少し、NAIRUの3.5%にまで達し、賃金上昇が始まる。一方、良いシナリオとして、2013年が景気回復の年となり、2005年-2007年の平均値を少し下回る20万人の就業者の増加が発生する場合を考える。ここで労働力人口の減少数が、2012年と同様に36万人と仮定したならば、失業者数は1年間に56万人減少し、年内に失業率はNAIRUの3.5%にまで達し、賃金は上昇に転じるのである。3年先までは見通せないが、今年は円安と株高、加えて政府の公共投資の増額の結果、景気回復はかなりのスピードで進行すると思う。ただ、来年は消費税増税があるので、景気は回復速度が鈍るか、場合によっては、悪化するかもしれない。今年の就業者数が20万人増加することは十分に考えられる。年間就業者数20万人増加と言っても、アメリカならば、1ヶ月間に就業者数(=非農業部門雇用者数)が増加する人数に近い。来年の消費税増税後の景気状況が、昨年のミニ景気後退並みであった場合でも、失業者数は17万人前後減少するのである。考えられるシナリオとしては、1-2年後には、失業率がNAIRUの3.5%以下になり、賃金が上昇に転じる可能性が一番高いと思う。

円安が発生した後、最初に上昇するのは、エネルギーを始めとする輸入品物価の上昇である。この輸入品物価の上昇に対しては、我慢するしかない。その後1-2年、長めに見積もっても3年強以内に、失業率はNAIRUの3.5%にまで低下し、賃金は上昇に転じざるを得なくなる。3年強というのは、昨年のようなミニ景気後退が3.3年間続いたと仮定した場合であり、実際には発生する確率が低いシナリオであるのだが、その場合でも、賃金は3.3年以内に上昇に転じるのである。

このような賃金の上昇は、日本経済全体として見た場合、良い賃金の上昇と言うことはできない。賃金上昇の原因の多くが、金融緩和の強化による景気回復よりも、生産年齢人口の減少と生産性の低下による潜在成長率の低下の割合の方が高いからである。そうした環境下では、景気回復が起こって、就業者数が少し増加すると、すぐに失業率がNAIRUにまで低下し、賃金の上昇が始まる。経済成長率が低水準を維持し、企業収益が圧迫される中、人手不足で賃金の上昇だけが発生するのである。経済成長の果実が少ししか増えない中、労働者の取り分が増え、企業の取り分が減少する姿である。より望ましい姿は、経済成長率がもっと高くなり、その成果の果実を、企業と労働者が共に分配し合う姿である。そのためには、潜在成長率を上昇させることが必要である。

潜在成長率を高めるために第一に求められる政策は、生産性の上昇率が高い製造業、中でも電気機械産業の国際競争力を取り戻すことである(*1)。その必要条件としては、まずは円安状態の維持である。加えて、規模に関する収穫逓増の利益を失った産業は、自由競争の中で比較優位を取り戻すことは不可能であるので、政府による産業政策が必要とされる分野も出てくると思う(*2)。過去10数年間、生産性の伸びが非常に高い製造業から、生産性の伸びがほとんど無いサービス産業へと、大規模に移動した雇用の流れを逆転させる必要がある。第二に、労働力人口の増加を促す政策である。女性や65歳以上の健康な高齢者にも働いてもらうことができる環境、制度の整備の強化が必要である。第三は、生産性の低いサービス産業の生産性向上である。いわゆる構造改革、規制緩和推進論者が本当に必要な成長戦略として繰り返し強調している政策である。私は、規制改革が魔法の杖ではないと考えるが、現在の経済構造を制度化している規制の中に、時代の変化に適応していない規制が数多くあることは間違いない。細かな規制を一つ一つ再点検し、より時代に適した規制体系に再編成することは、何時の時代にも必要である。そうした細かな作業の集積の結果が、経済の潜在成長率の上昇につながると思う。この作業は、規制緩和推進論者が言うほど簡単な作業ではないと思うが、常に必要とされる政策でもある。

潜在成長率を引き上げる政策をフル動員したとしても、少子高齢化、人口の減少は、医療や年金などの社会保障関連の歳出増加につながり、日本経済のオーナス(重荷)となって、潜在成長率を押し下げる力として毎年拡大し続ける。現在直面している問題は、インフレターゲットの導入の期待が高まるだけで、円安株高が起こり、景気回復が見えてくる問題であり、賃金の上昇までは、あまり解決の難しい問題では無い。金融緩和の出口政策も、簡単な問題ではないが、難題であるとも思えない。しかし、その先が難題なのである。長期的には、人手不足が恒常化し、賃金に上昇圧力がかかり続け、逆に企業収益の方が圧迫され続けることになる。そうなると、どうしても、企業サイドからは、移民流入規制の緩和が強く要求されることにならざるをえない。問題が、失業と賃金の下落から、人手不足と賃金の上がりすぎに、180度変わってしまうのである。移民問題は、いずれは国論を二分する大問題となるであろう。

世界最速で少子高齢化社会を迎える日本には、この他にもこれから難題が次々と顕在化してくるはずである。それから先は、日本人の知恵を結集させ、非伝統的な新しい問題解決方法を編み出しながら、難題の山を乗り越えていくしかないと思われる。

テーマ : 経済
ジャンル : 政治・経済

ビッグマック指数の問題点

ビッグマック指数、生活費指数、IMF購買力平価

日本のエコノミストの中には、現在(2013年2月9日、1ドル=93円70銭)でも、為替レートが1ドル=70円台の時においても、円の為替レートは割高ではない、と主張する人たちがいる。そうしたエコノミストたちが円は割高ではないと主張する根拠の一つが、ビッグマック指数から見た円の購買力平価である。エコノミスト社が2013年2月1日に発表したビッグマック指数によれば、円はドルに対して、19%割安の水準であった。購買力平価の一つであるビッグマック指数から見ると、円は対ドルで20%近く安く評価されているので、現在の円相場は、円高ではなく円安である、という主張である。

以前、購買力平価とは何かを説明した際(*1)、ビッグマック指数を購買力平価として使用すべきではないと主張したが、今回は、その根拠をより詳しく説明する。エコノミスト社は、社内にEIUという調査・コンサルタント部門を抱えている。その EIUは、2013年2月4日に、駐在員用の生活費指数を発表している。これは、世界140都市における商品、サービス価格を160品目以上調査し、それをニューヨーク=100として比較するものである。この調査によれば、東京の指数は152であり、東京の生活費は世界で一番高いという評価であった。ちなみに、世界第2位は、大阪である。これは、東京の生活費がニューヨークを52%上回っている、ということを意味する。同時に、東京の物価がニューヨークを52%上回っている、という意味でもある。さらにこれは、購買力平価で見た場合、東京という日本を代表する都市で流通する円の価値が、ニューヨークというアメリカを代表する都市で流通するドルの価値を52%上回っている、ということをも意味している。

ビッグマック指数と生活費指数を使い、ドル=100とした基準で、円のドルに対する割高、割安度合いを示す数値をグラフ化したものが、最初に示したグラフである。このグラフには、IMFの購買力平価で見た円のドルに対する評価値も挿入した。グラフを見てわかることは、三つの指数の変動がよく似ている、ということである。一方、指数の水準は全く異なる。生活費指数は非常に高く、ビッグマック指数は非常に低い。IMFの購買力平価はその中間である。2013年の値は、生活費指数が152、IMFの購買力平価が127、ビッグマック指数は81である。

エコノミスト社の算出する生活費指数、ビックマック指数を用いてドル・円の為替レートを評価してみる。日本は生活費が非常に高いので、生活費指数を購買力平価として使用した場合、円の価値はドルを52%上回る。一方、ビッグマックという一商品に関しては、日本での価格が安いため、ビッグマック指数を購買力平価として使用した場合、円の価値はドルを19%下回る。

どちらの指数を購買力平価として使うのが正しいのであろうか。それは、生活費指数の方である。理由は、ビッグマック指数が、ビッグマックという一商品から算出される購買力平価であり、生活費指数は、160品目以上の商品、サービスから算出される購買力平価であるからだ。エコノミスト社は、ビッグマック指数を購買力平価として宣伝しているが、生活費指数を購買力平価としては扱っていない。しかし、本当は、エコノミスト社が算出する生活費指数の方が、ビッグマック指数よりも、購買力平価としては精度が高いのである。

では、エコノミスト社の生活費指数を購買力平価として使用することは正しいであろうか。これも誤りである。エコノミスト社の生活費指数で使用する商品、サービスは、160品目以上と少ない。IMFの購買力平価では、途上国においては、約1000品目、日本やアメリカなどの先進国においては約3000品目の商品、サービスから算出された指数である。EIUはエコノミスト社の一部門であり、その調査員が、毎年数多くの調査レポートを発表しているが、その中の一つのが、生活費指数である。IMFの購買力平価は、元をたどれば、世界銀行の ICP(International Comparison Program:国際比較プログラム)という購買力平価算出プログラムの中で作成された数値を元に計算されている。世界銀行が中心になり、OECD、ユーロスタットが協力して算出した購買力平価を、IMFがアップトゥデートしたものである。ICPという作業に何人が参加したかは分からないが、EIUの生活費指数よりも、遥かに膨大な人員、時間、統計の専門家が共同で算出した購買力平価であることは間違いない。世界銀行とIMFの購買力平価は、ICPで2005年を基準にして算出された購買力平価を大元に使っているので、全く同じではないが、似たような数値になっている。先進国に限った購買力平価については、OECDとユーロスタットが協力して算出したOECDの購買力平価も利用可能である。これも、ICPに組み入れられているので、2005年のOECDの購買力平価は、世界銀行、IMFと同じである。生活様式が異なる国々の物価を比較して計算し、購買力平価という一つの国を代表する一つの数値を算出している。どんなに多くの優秀な人員を長時間動員しても、欠点、欠陥を完全に除去することはできないと考えられ、その精度には、限界があるであろう。だが、現在、世界に存在する一番精度の高い購買力平価は、世界銀行、IMF、OECDの購買力平価であるはずだ。

2013年2月6日のエコノミスト紙に、「ビッグマック指数で見た通貨戦争」という題名の記事が書かれていた。ここでは「バーガノミックス」という名で、ビッグマック指数を使った通貨分析を行い、どの通貨が割高、割安であるかを評価している。その中では、円は対ドルで19%割安であるということも書かれており、その日本が通貨戦争の話題に火を付けた事を批判的に書いている。このエコノミスト紙の記事は非常に不適切であると考える。分析を行うなら、より精度の高い生活費指数を購買力平価として使った分析も同時に発表すべきであろう。生活費指数なら、円は、依然として世界一高く評価されている通貨なのである。

ビッグマック指数の大きな意義は、「わかりやすさ」にある。購買力平価とは何かを知らない人たちに対して、購買力平価の意味を説明する際、ビッグマック指数を例として使うと、非常に分かりやすい説明が可能になる。わかりやすく、かつ現実を正確に反映している指数であれば、いくら使用してもかまわない。しかし、ビッグ
マック指数はわかりやすいだけで、精度が低い物差しなので、使用すると、現実を歪んだ形でしか認識することができない。購買力平価を使うのであれば、世界銀行、IMF、OECDの購買力平価を使用すべきである。ビッグマック指数は、購買力平価を説明する際の入門者用のテキストだけに使途を限定して使用すべきである。ビックマック指数は、専門的な通貨問題の分析のために使用する尺度としての購買力平価からは、追放すべきである。



関連記事
購買力平価とは(*1)
購買力平価から見た円相場 対主要国(OECD)
購買力平価から見た円相場 対アジア諸国(IMF)
購買力平価から見た円相場 超円高による産業の空洞化
円の実質実効為替レート 継続する超円高

テーマ : 経済
ジャンル : 政治・経済

全記事表示リンク
目次のページを表示

株式関連 株 コメント一覧

  • 投資部門別 現物先物 時系列表

  • 投資部門別売買状況 時系列グラフ

  • 6月第2週 株 コメント

  • 6月第1週 株 コメント

  • 5月第5週 株 コメント

  • 5月第4週 株 コメント

  • 5月第3週 株 コメント

  • 5月第2週 株 コメント

  • 5月第1週 株 コメント

  • 4月第4週 株 コメント

  • 4月第3週 株 コメント

  • 4月第2週 株 コメント

  • 4月第1週 株 コメント

  • 3月第5週 株 コメント

  • 3月第4週 株 コメント

  • 3月第3週 株 コメント

  • 3月第2週 株 コメント

  • 3月第1週 株 コメント

  • 2月第4週 株 コメント

  • 2016年 年間 株 コメント

  • 投資部門別売買状況アノマリー

  • 日本株 株式分布状況調査

  • 日銀資金循環統計 株 長期グラフ

  • 日銀資金循環統計 株 コメント

  • 株式先物投資部門別売買状況

  • 大手証券 先物建玉推移 グラフ

  • 海外投資家の株式買い越し金額

  • 世界の株価 国別 長期推移

  • 世界の住宅用不動産価格

  • 長期の実質実質為替レート

  • 最新記事
    カテゴリ
    最新コメント
    Twitterを表示
    経済指標が意味するところを解説
    FC2カウンター
    最新トラックバック
    検索フォーム
    リンク
    ブロとも申請フォーム

    この人とブロともになる

    QRコード
    QR
    RSSリンクの表示
    Web Analytics